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日本ボクシング界の父

渡辺勇次郎
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今から91年前の1921年(大正11年)1月、
渡辺勇次郎は横浜のメリケン波止場に帰りついた。

   125年前の1889年となる明治22年11月11日、
   栃木県 塩谷郡片岡村(現在の矢板市)に生まれた渡辺勇次郎は、
   栃木県 真岡市にある真岡中を中退。
   そして、
   外国語を会得と、
   将来は貿易商を夢見て、
   まだ16歳時の1906年(明治39年)秋に渡米していた。

   
16歳でこの港(横浜のメリケン波止場)から出航して15年が経過しており、
渡辺は既に31歳。
この時(1920年・大正10年1月)、
渡辺がアメリカから持ち帰ったのは”ボクシング”という真新しいスポーツだった。

 日本における純ボクシングはここに始まったと言えるだろう。

 奇しくも渡辺と同じ栃木県出身の評論家の故・郡司信夫が
 渡辺勇次郎を評して”ボクシングの父”と呼ぶのは正しい解釈である。


   今回の論旨からは離れるが、
   ”プロボクサー・渡辺勇次郎”は、
   アメリカでどのようなファイトをしていたのか。

   それを伝える資料は少ない・・。
   
     BOXRECでは、
     1911年~1914年(22~25歳)までの3年間
     Young Watanabe のリングネームで
     22戦10勝4KO8敗2分

   というレコードが記載されている。

   古い写真に見る勇次郎の若き日の風貌は精悍さに溢れそして柔和な表情。
   (なかなかのイケメンである。)

     サンフランシスコに上陸しそこで働きはじめまもない頃
     この当時アメリカは排日傾向の強い時代。
     柔道初段の腕前を持っていた18歳の渡辺勇次郎は
     ボクシングの心得のある白人の不良に喧嘩で“KO”されてしまう。
     これが切欠でボクシングに興味を持ち、そして、
     これを機に本格的にボクシングを学ぼうと志すが
     日本人排斥が盛んなこの時期、白人のジムはどこも門前払い。
     それでもジムを探し回り、黒人のルーフ・ターナー師範の道場で漸く入門許可。
     ここでボクシングを学び6ヵ月後、
     勇次郎はアマチュア大会で3回KO勝ちを収めてみせた。
     
     そしてのちにプロでも戦い始める。

     
     プロでは、
     「当時アメリカ西海岸では4回戦しか認められていなかった」
     ということと、
     その西海岸のライト級で最強だった為、
     「4回戦王(Four Round KING)と呼ばれた」

     また、
     「カリフォルニア州ライト級王者になるなど活躍した」


     と自ら語っている。

   しかし、
   その全レコードは全くわからない。

   生前本人がわずかに語っていた断片をつなげていくと、
   ライト級でほぼ50戦はしていたようである。

   1913年(24歳時)、
   渡辺は 「強豪だった」というウィリーハップを 1RKOで破り、
   このときに「4回戦王(Four Round KING)」の称号がついたと語っている。
   (しかし、
    BOXRECにはその勝利した試合の記載は無く、
    その前年にはこのハップに2戦2敗している記録がある。)

   渡辺は、
    「1RKOで破ったハップとの再戦で敗れ、
     (渡辺勇次郎の)敗戦はこの一つのみ」
   と言われていた。
   (しかし、
     BOXRECでは少なくとも通算8敗を喫している。)

   真実は霧の中である。



話を戻す。

1921年(大正11年)1月、15年ぶりに帰国したとき31歳になっていた渡辺勇次郎の手により、
この年のクリスマスの日(大正11年12月25日)
 日本最初の純ボクシングクラブが
 東京・下目黒(東京市外下目黒86番地(当時の住所))に創設された。

 日本拳闘倶楽部(通称 ”日倶”) である。

 クリスマスに行われたこの発会式に立ち会ったのは、
  ・会長で師範の渡辺勇次郎本人(当時32歳)、
  ・マネージャーの室田譲
  ・渡辺の遠戚で練習生第1号の横山金三郎
 の3人きりであった。

  遠く田んぼのあぜ道にワンタン屋のチャルメラが鳴り響くと、
  練習生第1号の金三郎が渡辺の命令で飛んでいって
  まわり真っ暗な田んぼのなか、ワンタンを買いに行った。

 これが日本ボクシング界の夜明けを告げる原風景だった。

 この道場をオープンした1週間後に年が明けたが、
 入門者は皆無。
 当時の入会金5円で月会費5円だったが、
 すぐに入会金3円、月会費2円に値下げされた。


日倶創設から4ヵ月後の
1922年(大正12年)4月30日、
 サンフランシスコ時代に交友のあった日本人ボクサーの草分けの一人、
 郡山幸吉が、春洋丸で帰国する。

 このとき郡山幸吉は、
 かねてからの渡辺の懇望を受けて、
  サンフランシスコのマネージャーであるムーズ・タウシッグと
  二人のボクサー
   スパイダー・ローチ、
   ヤング・ケッチェル
 を連れてきた。

 前年のクリスマスに発足からおよそ5ヶ月、
 渡辺は勇躍して日本で初の国際ボクシング大会の興行を打つことに。

1922年(大正12年)5月7日、
 (勇次郎が帰国後1年5ヶ月、日倶創設から5ヶ月)
東京・靖国神社で日本初のボクシングの興行が開催された。

    しかし、
    この初興行は散々の不入りで終わる。


 莫大な借金を負った渡辺は外人選手のファイトマネーも出せない。

 結局3000円の借金をして
 マネージャーのムーズ・タウシッグら3人の帰国資金をつくり 送り返した。
 だが、
 一等船室を奮発したため、一行は渡辺の男気を大いに評価したと言われる。

この4年後、
「昭和」に入ると「昭和の歩み」と共に日本ボクシング界は輝かしい発展の歴史を刻んでいく。

 その後の渡辺の主な活躍ぶりを列挙していくことで、
 日本ボクシング史その創世記が映し出されていくことになる。


一旦ここできります
((2)へ)



1956年(昭和31年)6月28日、
 渡辺勇次郎は胃がんのため永眠。
 享年69歳。

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by withlove777 | 2015-01-15 00:00 | Trackback | Comments(0)  

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