”悲劇の名ボクサー”田辺清

田辺清
1940年(昭和15年)10月10日生(※王貞治と同年齢)
青森県青森市出身
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・1960年の20歳時、
 日本初の五輪メダル獲得となるローマ五輪銅メダリストに輝く。

・それから3年後となる1963年暮れ、23歳でプロ転向。

・そしてプロ14戦目になるデビュー後1年10ヶ月の1965年10月、
 日本フライ級王座獲得。
 同王座2度防衛。

・21戦無敗で向かえた1967年2月、
 当時の世界王者アカバリョとノンタイトルで対戦し、6RTKO勝利。

 世界1位となり、
 次戦での世界挑戦が正式に決まり、
 キャンプを張った先で田辺は黒い金魚を見てしまう。
 赤い金魚が黒く見えることに気づいた田辺は病院に駆け込んだ。

 判明したのは網膜剥離。
 ボクサーとして致命的疾病である。
 手術を施したが視力は回復せず。

 ボクサー生命を絶たれた。

「片目でもアカバリョとやりたい」といった言葉は有名である。

・世界王者アカバリョをTKOした3ヵ月後の同年5月
 日本王座返上。
・そして同年6月、
 正式に引退届けを出した。

デビュー戦から世界王者をTKOしたまでのプロキャリアは、
3年3ヶ月であった(23~26歳)。

田辺清 右クレバーファイタータイプ
終身戦績22戦21勝5KO1分。

無敗の綺麗な星である。
惜しむにあまりある選手と言えよう・・。

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       上記文は田辺清の足跡といえるものだが
      これら一連のことはご存知の方も多いと思います。
      ここでは
      ”偉大、且つ、悲劇のボクサー田辺清”
      をもう少し詳しく書き留めて置くことで
      改めて振り返っておきます。


題して、
”悲劇の名ボクサー”
田 辺  清


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1960年(昭和35年)、
ローマ五輪でフライ級3位に入り銅メダル獲得した。
田辺の執拗な連打戦法が日本初のメダルを齎した快挙であった。

その後、
 1964年東京五輪桜井の金、
 1968年の森岡の銅
を最後に 44年間メダリストは出なかった。
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この頃(1960年前後)、
各大学には多くの逸材が犇めき合い、
今とは雲泥の差なほどに人気を博し、
アマ界は活況を呈していた。

この中において、田辺清の存在は群を抜いていた。

 飽くなき連打、闘争心、気力精神力という文句が看板となり、
 田辺清のインファイトには定評があった
が、
 当時のメディアやファンは
「ホセトーレスのようなガードからの連打攻撃で戦う攻撃的ファイトスタイル」な田辺の戦い方の、
その外見に捉われ過ぎではなかったか。

田辺清の本質とは、
「生来のボクシング勘&ボクシングセンスの良さに立脚した技術」にあったこと
 を落としてはなるまい。
こうした本質(技術の高さ)が、
 後年プロ転向後ボクサーとして完成の域に到達する下地を形成していたと言えるだろう。
インファイターだが、
 所謂突貫型ではなく、知性を感じさせる洗練された技巧の持ち主。

古今通じ、
田辺清ほど
 技術、体力、パンチ力、精神力のバランスが取れた完成度の高い技巧派は少ない。
 そして頭脳明晰な男だった。

そして田辺清ほど悲劇のボクサーもいない。


<第一章 トップアマ~五輪メダル獲得>
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地元、青森工業機械科在学時、
 ボクシングに目覚め、
1958年(昭和33年)高三の時にアマ高校フライ級優勝

 そして中央大学からスカウトがあり入学。
 貧しかったので大学の総務課でアルバイトをしながら学ぶ。

1959年(昭和34年)大学1年、
 早くも全日本フライ級優勝。
 しかも全選手の中で大会最優秀選手に選出。

1960年(昭和35年)大学2年生の夏(=19歳10か月)、
アマ33連勝を飾って、
第17回ローマ五輪(‘60)フライ級に出場。


 1回戦   シード
 2回戦   ○5-0判定勝利 イサック・アリー(ガーナ)
 3回戦   ○4-1判定勝利 カリム・ヤング(ナイジェリア)
 準々決勝 ○4-1判定勝利 ミーシア・ドブレスク(ルーマニア)
                   ※ドブレスクはヘルシンキ五輪で永田に勝
 準決勝   ●1-4判定    セルゲイ・シフコ(ソビエト)

 シフコの長いリーチを掻い潜りラッシュし、
 連打につぐ連打で打ちまくった。
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 相手は血を流してグロッキー状態。
 誰が見ても田辺の勝利を疑わなかったが、
しかし、
 ”黒い判定”と言うべき不可解な判定により、
 金色への栄光は奪われてしまう。

 田辺は五輪フライ級3位に甘んじた結果となった。
が、しかし日本ボクシング史上初のメダリストとなった。
 ローマの空に日本最初の日の丸を田辺が掲げた
 (写真下左端が田辺清)。
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これは日本ボクシング連盟創立35年目での悲願でもあった。

19歳で五輪銅メダル獲得した田辺は、
まだ大学生活を1年4ヶ月しか過ごしていない状況。
大学卒業までの2年8ヶ月、アマのリングで活躍を続けた。

1960年(昭和35年)11月(=五輪から3ヶ月後)
1階級上げて、全日本バンタム級優勝。
昨年のフライ級に続き2連覇(高3時の優勝から数えて3連覇)

1961年(昭和36年)11月、
全日本バンタム級優勝。
一昨年フライ級、昨年バンタム級に続き3連覇(高3時優勝から数えて4連覇)
(※尚、この全日本選手権1回戦、
 ’64東京五輪金メダル桜井孝雄と対戦し1R終了棄権で勝利)

1962年(昭和37年)7月、
アジア大会出場権獲得戦バンタム級で高山将孝らに勝利

1962年(昭和37年)8月、
アジア大会バンタム級優勝(4勝)

この年10月の国体団体戦決勝でも桜井に判定勝利。

田辺清は
アマ通算120戦115勝
 高3 高校フライ級優勝
 大1 全日本フライ級優勝
 大2 全日本バンタム優勝、ローマ五輪フライ級銅メダル
 大3 全日本バンタム優勝
 大4 アジア大会バンタム優勝、国体団体戦優勝

見事な戦績を最後に、中央大学卒業。
日刊スポーツ新聞社の記者に転身する。



<第二章 
 プロ入り~日本王者~世界2位>


しかし、
 リングサイドで取材しているとイライラしてくる。
さらに、
 嘗てのアマ時代のライバル堤五郎が、
 比国のケオスリアにKOされるのを見てプロ入りを決意。
就職後半年も経っていない1963年、
22歳の夏だった。
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そしてプロデビュー戦はその同年。

<1963年12月>
 23歳2ヶ月の時。
6回戦デビュー戦。
 ワンサイドの判定勝利で初陣を飾ってから、
 一気に13連勝の快進撃で、
 日本タイトル挑戦へと突き進むことに。
.

<翌1964年>
 ・プロ2戦目での初8回戦。
  「37戦のキャリアの田口久」に勝利。

 ・プロ4戦目で初10回戦。
  「29勝5敗2分の谷地沼」に4RTKO勝利。

 ・プロ5戦目
  「26勝3敗3分の岩谷」に2RKO勝利

 ・プロ7戦目(写真下)、
  「12戦無敗のジェットパーカー(比国)」との無敗対決に勝利
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デビューから1年間で8試合を消化(=45日ペース)。

<1965年>
 この年の初戦(=デビュー9戦目)あたりから、
 国内外のトップレベルとの対戦が続く。

 そしてそれらのライバル対決(写真下の3選手など)に
 悉く勝っていくことで、実力を証明し続けていく。
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 ・9戦目、
  日本フライ級王者滑川明石(帝拳)〔上写真中央〕
  と、ノンタイトルで対戦。

 滑川は、
 たこ八郎こと斉藤清作(笹崎)→飯田健一(三鷹)〔上記写真3枚の左〕→
 のあと、王者に就いていた。
 当時23勝3敗1分。
 端正な顔立ちで人気のあったサウスポー。
 これに田辺が判定勝利。

 ・10戦目
  「4戦目で2RKOした岩谷」との再戦。
  判定勝利で連勝。

 ・11戦目
  「韓国フライ級王者姜煕秀〔カン・ヒスー〕」
  に7RTKO勝利

 ・12戦目
  「前日本フライ王者飯田健一〔上記写真3枚の左〕」
  に判定勝利


 ・13戦目
  「比国フライ級王者リックマグラモ」
  に判定勝利。

これで13戦13戦。
(現王者滑川、前王者飯田、比国王者、韓国王者らに勝利含)。
 
 ・そして
  1965年10月25日、14戦目。
  無冠戦で勝った王者滑川(帝拳)〔上写真中央〕と、
  今度はタイトルを懸けての10ヶ月ぶりの再戦。
  田辺にとってタイトル初挑戦。
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  再度滑川に勝ち日本フライ級王座獲得☆

悉く強豪を撃破し続けての14戦目での日本制覇。
プロデビュー後、
「1年10ヵ月後での日本王座獲得」でもあった。
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<翌1966年>
 ・15戦目、
  日本フライ級王者としての初戦(獲得から40日後)、
  いきなり日本バンタム級王者山上哲也(木村)〔上記写真3枚の右〕
  との王者対決
に挑み、判定勝利。
 (事実上の日本2階級制覇)

 ・16戦目、
  前王者滑川明石と初防衛戦で三度目の対決。
  そして2RKO勝利
(写真下)。
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  これで前日本王者滑川には3戦3勝1KOとして完全決着

 ・さらにこのあと、
  比国や韓国の強豪に3連勝。
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 ・20戦目、
  日本王座2度目の防衛戦で
  「15勝1敗5分の鳴海勇三(不二)」との青森出身対決となり、
  これに引分で2度目の防衛。

<1967年>
 ・21戦目
  韓国フライ級王者姜煕秀〔カン・ヒスー〕と再戦。
  (11戦目で対戦し7RTKO勝利)
  判定勝利で韓国王者に連勝となり、デビュー20連勝(1分含)達成。

正に順風満帆の連勝街道だった。



<第三章 対世界王者・圧勝>

 この時点で「世界2位になっていた田辺清」は、
<1967年2月20日>
 時の世界フライ級王者
 オカシオ・アカバリョ(亜・当時73勝1敗6分)〔写真下〕を
 後楽園ホールに向かえノンタイトル戦を行う。
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アカバリョはその戦績の凄さも然ることながら、
左右スイッチして戦う老練で難攻不落の世界王者。

  32連勝の高山勝義との王座決定戦(九段下・日本武道館)
  2-1ながら快勝(7.4.-1差)=世界王座奪取。

 その後、
  海老原博幸に3-0勝利
  アラクラントーレスも撃破。
 この時点47連勝で8年無敗。

それに対し、
 21戦無敗の田辺は、
 世界2位にいたことで当然タイトルマッチでもよかった筈だが、
 アカバリョ側が警戒して避けた格好での無冠戦に。

日本王座獲得時(滑川戦)の過程と同様に、
今回も無冠戦に先ず勝って、そして世界戦へと持ち込みたい試合。

この試合に備え、
 トレーナーとして付いた名伯楽エディタウンゼントは
 「攻撃95%のボクシングよ」(エディ)
 と攻撃的スタイルを授けていた。

頭のシャープな田辺は、
 エディの作戦を直ちに理解。
 そしてリングでそれを具現してみせる。

 初回から、田辺の猛攻。
 スピードに乗った連打で襲い掛かり、
 アカバリョの顔面・ボディを打ちまくる。
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 初回、2Rと田辺が取った。
 そして3R、田辺の右ストレートでアカバリョダウン!
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 4R、アカバリョはバッティングで右の額から夥しい流血。
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 さらに田辺の右フックでダウン!
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 以降も田辺の攻勢は止まず、ロープからロープへと追い掛け回す。
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 6R、またバッティングがあったところでドクターストップ、・・
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田辺の6R2分22秒 TKO勝利となった。


 現行ルールでは6R負傷判定となった試合、
 2度ダウンを奪うなど全ラウンド田辺が制しており、
 この試合の5Rまでの採点は(当時5点法)、
 25-18
 25-18
 25-20
フルマークでの7.7.5差の3-0で田辺でした。

アカバリョのマネージャーは、
「田辺はアタマのいいボクサーだ」と皮肉込めて非難。
タイトルを掛けての再戦を回避しようとしたが、
内容で圧倒されていたのだからその意向は通らない。

 アカバリョは、
 生涯二度目の敗北と共に
 「8年無敗の47連勝がここでストップ」。

 そして田辺は、
 22戦無敗と記録を伸ばし、
 日本王座獲得から7勝目(2度防衛含)

 世界2位から世界1位に上がり世界挑戦が決定的。
 さらにWBAは、
 この月(1967年2月)の月間最優秀選手に田辺を選出した。






<最終章 黒い蝶の悪夢>
しかし敗れた王者アカバリョ側は、
田辺と「東京での再戦」を徹底して反古。

  度重なる交渉の結果、
  このアカバリョⅠの試合の5ヵ月後となる1967年7月15日、
  アカバリョのホーム、
  アルゼンチン・ブエノスアイレス・ルナパークでの対決と決まる。

<アカバリョⅠの勝利の翌3月(1967年3月)>、
 田辺は、
 7/15の世界戦のため早速伊豆でキャンプを張った。
 翌4月にロポポロに挑戦する藤猛のキャンプも兼ねており、
 この両雄が白井・原田・海老原に次ぐ4人目&5人目の世界王者
 として大いに期待された。

 ところが世界の頂点を照準に捉えたこの時期、
 不幸にも田辺に突如悲運が襲う。

 丁度アカバリョ戦勝利から1ヵ月後、
 &世界戦まで4ヶ月と迫ったこのキャンプ地(1967年3月)でのこと。

 それは宿舎のホテルで、何気なく水槽の熱帯魚を見ていた時のこと。

 「なんだか右目に黒い蝶が出たり入ったりしているような感じがした、
 と思ったら、
 サーッとシャッターが降りるように右目がみえなくなった
 (田辺述懐)」

 診断結果は右目網膜剥離。
 ボクサーとして致命的な病である。

 田辺は最後の希望を手術に託して、
 同月(1967年3月)渋谷の日赤中央病院に入院。

 そして4月初めに手術。

「病院では16日間、
 目の安静のため頭を砂袋で固定して寝ていた。
 そのとき考えることはアカバリョのことばかり(田辺述懐)。」
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 1ヶ月後に退院し、
 ホテルで静養生活。

 アカバリョには延期を申し入れ。

 なんとか世界戦をと陣営ともども手を尽くしたが、
 しかし視力は回復しなかった・・。


<手術の翌月となる1967年5月27日>、
 日本王座を返上。

<翌1967年6月20日>、
 正式に引退届けを提出。

田辺清のプロボクサー人生がここで終止符となった。

 ちなみに、
 延期を申し入れたことで、
 当初の7/15から8/12にスライドとなったそのブエノスアイレスでの興行は
 海老原が代理出場という形になって、
 再度挑むことになったが、0-2で惜敗。

 アカバリョもこの試合を最後に引退する。




 悲報の衝撃度は当時、
 計り知れないものがあった。
 古今通じて日本ボクシング界最大の悪夢の1つ
 と言える無念の引退。

 21戦無敗&世界1位田辺の4ヶ月後に迫っていた世界戦直前で
 驚愕の悲哀にくれた。


”伝統のフライ”といわれるこの階級は、
 戦後の白井義男からはじまり、
 1960年代 ファイティング原田、海老原博幸
 1970年代 大場政夫、花形進
 1980年代 大熊正二、小林光二、レパード玉熊
 1990年代 ユーリアルバチャコフ
 2000年代 坂田健史、内藤大助、亀田興毅・大毅
         五十嵐俊幸、八重樫東、江藤光喜
16名の最多世界王者数を誇るクラス。

  この世界王者の名前のなかに、
  田辺清の名は勿論入っていない。

  しかし”伝統のフライ”を語る中、
  世界に手が届くところにありながら、
  無敗でグローブを壁に吊るした悲運の名ボクサー田辺の存在は
  決して欠くことはできない。

  田辺清の名を
  未来永劫、
  語り繋がれて行って欲しい。



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<全戦績>
   第16代日本フライ級王者
   世界フライ級1位
   田辺 清(田辺)

01 63.12.04  ○ 6R判定  成富伸夫(青木)
   63.12.14    4REX   小森正春(大真)
02 64.02.07  ○ 8R判定  田口 久(カワイ)
03 64.03.28  ○ 6R判定  秋山 満(カワイ)
04 64.04.27  ○ 4RKO   谷地沼勝男(笹崎)
05 64.06.08  ○ 2RKO   岩谷永四郎(笹崎)
06 64.08.10  ○ 10R判定 レオ・スルエタ(比)
07 64.09.21  ○ 10R判定 ジェット・パーカー(比)
08 64.11.08  ○ 10R判定 金 奎喆(韓国)
09 65.01.11  ○ 10R判定 滑川明石(帝拳) ※日本フライ級王者と無冠戦
10 65.04.05  ○ 10R判定 岩谷永四郎(笹崎) ※再戦
11 65.05.25  ○ 6RTKO  姜 煕秀(韓国) ※韓国王者
12 65.07.12  ○ 10R判定 飯田健一(三鷹) ※前日本フライ級王者
13 65.08.08  ○ 10R判定 リック・マグラモ(比) ※比国王者
14 65.10.25  ○ 10R判定 滑川明石(帝拳) ※日本フライ級王座獲得
15 66.01.03  ○ 10R判定 山上哲也(木村) ※日本バンタム王者と無冠戦
16 66.03.28  ○ 2RKO   滑川明石(帝拳) ※日本フライ級王座 防衛1
17 66.05.30  ○ 10R判定 ディオ・エスピノサ(比) ※ルイシトの実父
18 66.06.30  ○ 10R判定 朴 乙洙(韓国)
19 66.08.08  ○ 10R判定 エリー・ラモス(比)
20 66.10.17  △ 10R引分 鳴海勇三(不二) ※日本フライ級王座 防衛2
21 67.01.02  ○ 10R判定 姜 煕秀(韓国) ※再戦
22 67.02.20  ○ 6RTKO  オラシオ・アカバリョ(亜) ※世界王者と無冠戦
   67.05.27    日本フライ級王座 返上
   67.06.20    引退届け提出

22戦21勝(5KO)1分無敗
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# by withlove777 | 2015-01-22 00:00 | Comments(0)

日本ボクシング界の父

渡辺勇次郎
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今から91年前の1921年(大正11年)1月、
渡辺勇次郎は横浜のメリケン波止場に帰りついた。

   125年前の1889年となる明治22年11月11日、
   栃木県 塩谷郡片岡村(現在の矢板市)に生まれた渡辺勇次郎は、
   栃木県 真岡市にある真岡中を中退。
   そして、
   外国語を会得と、
   将来は貿易商を夢見て、
   まだ16歳時の1906年(明治39年)秋に渡米していた。

   
16歳でこの港(横浜のメリケン波止場)から出航して15年が経過しており、
渡辺は既に31歳。
この時(1920年・大正10年1月)、
渡辺がアメリカから持ち帰ったのは”ボクシング”という真新しいスポーツだった。

 日本における純ボクシングはここに始まったと言えるだろう。

 奇しくも渡辺と同じ栃木県出身の評論家の故・郡司信夫が
 渡辺勇次郎を評して”ボクシングの父”と呼ぶのは正しい解釈である。


   今回の論旨からは離れるが、
   ”プロボクサー・渡辺勇次郎”は、
   アメリカでどのようなファイトをしていたのか。

   それを伝える資料は少ない・・。
   
     BOXRECでは、
     1911年~1914年(22~25歳)までの3年間
     Young Watanabe のリングネームで
     22戦10勝4KO8敗2分

   というレコードが記載されている。

   古い写真に見る勇次郎の若き日の風貌は精悍さに溢れそして柔和な表情。
   (なかなかのイケメンである。)

     サンフランシスコに上陸しそこで働きはじめまもない頃
     この当時アメリカは排日傾向の強い時代。
     柔道初段の腕前を持っていた18歳の渡辺勇次郎は
     ボクシングの心得のある白人の不良に喧嘩で“KO”されてしまう。
     これが切欠でボクシングに興味を持ち、そして、
     これを機に本格的にボクシングを学ぼうと志すが
     日本人排斥が盛んなこの時期、白人のジムはどこも門前払い。
     それでもジムを探し回り、黒人のルーフ・ターナー師範の道場で漸く入門許可。
     ここでボクシングを学び6ヵ月後、
     勇次郎はアマチュア大会で3回KO勝ちを収めてみせた。
     
     そしてのちにプロでも戦い始める。

     
     プロでは、
     「当時アメリカ西海岸では4回戦しか認められていなかった」
     ということと、
     その西海岸のライト級で最強だった為、
     「4回戦王(Four Round KING)と呼ばれた」

     また、
     「カリフォルニア州ライト級王者になるなど活躍した」


     と自ら語っている。

   しかし、
   その全レコードは全くわからない。

   生前本人がわずかに語っていた断片をつなげていくと、
   ライト級でほぼ50戦はしていたようである。

   1913年(24歳時)、
   渡辺は 「強豪だった」というウィリーハップを 1RKOで破り、
   このときに「4回戦王(Four Round KING)」の称号がついたと語っている。
   (しかし、
    BOXRECにはその勝利した試合の記載は無く、
    その前年にはこのハップに2戦2敗している記録がある。)

   渡辺は、
    「1RKOで破ったハップとの再戦で敗れ、
     (渡辺勇次郎の)敗戦はこの一つのみ」
   と言われていた。
   (しかし、
     BOXRECでは少なくとも通算8敗を喫している。)

   真実は霧の中である。



話を戻す。

1921年(大正11年)1月、15年ぶりに帰国したとき31歳になっていた渡辺勇次郎の手により、
この年のクリスマスの日(大正11年12月25日)
 日本最初の純ボクシングクラブが
 東京・下目黒(東京市外下目黒86番地(当時の住所))に創設された。

 日本拳闘倶楽部(通称 ”日倶”) である。

 クリスマスに行われたこの発会式に立ち会ったのは、
  ・会長で師範の渡辺勇次郎本人(当時32歳)、
  ・マネージャーの室田譲
  ・渡辺の遠戚で練習生第1号の横山金三郎
 の3人きりであった。

  遠く田んぼのあぜ道にワンタン屋のチャルメラが鳴り響くと、
  練習生第1号の金三郎が渡辺の命令で飛んでいって
  まわり真っ暗な田んぼのなか、ワンタンを買いに行った。

 これが日本ボクシング界の夜明けを告げる原風景だった。

 この道場をオープンした1週間後に年が明けたが、
 入門者は皆無。
 当時の入会金5円で月会費5円だったが、
 すぐに入会金3円、月会費2円に値下げされた。


日倶創設から4ヵ月後の
1922年(大正12年)4月30日、
 サンフランシスコ時代に交友のあった日本人ボクサーの草分けの一人、
 郡山幸吉が、春洋丸で帰国する。

 このとき郡山幸吉は、
 かねてからの渡辺の懇望を受けて、
  サンフランシスコのマネージャーであるムーズ・タウシッグと
  二人のボクサー
   スパイダー・ローチ、
   ヤング・ケッチェル
 を連れてきた。

 前年のクリスマスに発足からおよそ5ヶ月、
 渡辺は勇躍して日本で初の国際ボクシング大会の興行を打つことに。

1922年(大正12年)5月7日、
 (勇次郎が帰国後1年5ヶ月、日倶創設から5ヶ月)
東京・靖国神社で日本初のボクシングの興行が開催された。

    しかし、
    この初興行は散々の不入りで終わる。


 莫大な借金を負った渡辺は外人選手のファイトマネーも出せない。

 結局3000円の借金をして
 マネージャーのムーズ・タウシッグら3人の帰国資金をつくり 送り返した。
 だが、
 一等船室を奮発したため、一行は渡辺の男気を大いに評価したと言われる。

この4年後、
「昭和」に入ると「昭和の歩み」と共に日本ボクシング界は輝かしい発展の歴史を刻んでいく。

 その後の渡辺の主な活躍ぶりを列挙していくことで、
 日本ボクシング史その創世記が映し出されていくことになる。


一旦ここできります
((2)へ)



1956年(昭和31年)6月28日、
 渡辺勇次郎は胃がんのため永眠。
 享年69歳。

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# by withlove777 | 2015-01-15 00:00 | Comments(0)